居場所が見つけられない
医者の家系に生まれた直人さんは、両親から将来は医者になるよう言われて育ちました。学校の勉強も普段は良くできますが、時にはあまり良い点を取れないこともありました。
そのようなことが起こるたびに「そんな出来の悪いことじゃ、医者になんかなれっこない。そしたら一家の恥さらしだからね」と親は言い続けました。
すると直人さんの中には、「勉強せず医者になれないのは悪いこと」あるいは「医者にならなければ一家の恥さらし」である、という観念が育っていきました。
また「今のような生活をしたかったら、医者以外は考えられないでしょう」という親の意見を聞き続けて、「医者以外の職業では豊かな生活は送れない」という意識も芽生えたようです。
直人さんは小さいころから絵を描くことが無類の喜びで、絵描きとして暮らせたらどんなに幸せだろうと感じることもありました。
しかし親の価値観からすれば、絵描きになるなどもってのほかです。「絵描きになんかなったって、生活できっこない。そうなっても絶対面倒みないから」そう言い聞かされた直人さんは、自分本来の気持ちは封印して、医者になる道を選びました。
直人 最近なんだか生きる目標が見つけられなくて。親族で共同経営している病院の経営は順調ですし、家庭もごく普通の可もなく不可もなくという感じです。それなのに五十歳過ぎてなぜ自分はこんな気持ちになるのか、さっぱりわかりません。
私 医師という社会的に見ても重要な仕事をされていて、私生活も特に問題のない状態のようですね。でも生きる目標を見いだせないと感じるようになった。それはいつごろからですか。
直人 いつかな。ある時ふと自分が医者以外の人を見下していると思ったんです。たとえ医者以外で面白そうな人と出会っても、様々な理由をつけて付き合いを避けるのです。それと同時に何とも言えない疎外感を常に感じています。自分の居場所がないような感じです。
現在も病院の最高責任者である父も、やはり医者以外の人と個人的な付き合いをすることもなく、別の職業に就く人たちを見下しているのだそうです。
自己実現がうまくいかないと葛藤や不安が生まれる
高名な心理学者カール・ロジャースは、人は生まれながらに自己実現の能力が備わっていると述べています。
自己実現とは、自分の理想に向けて、内なる可能性を最大限に発揮して生きるという意味です。
自己実現ができないと葛藤や不安感が生じ、人生の目的を見失う、あるいは自分の居場所が見つけられないという気持ちになります。
従順な子供は、親の敷いたレールの上を懸命に走ろうとします。時にはもちろん子供らしい反抗もあるかもしれません。しかし子供にとって親は絶大なパワーを持っています。
直人さんも子供のころから、自分の意思や気持ちを封印してきました。親の価値観や固定観念に対してあまり疑問を持つこともせず大人になり、気づけば親の考え方や物の見方を自然に踏襲していたのです。
しかしこのような生活は、自己実現とは全く異なり、自分の理想を探すことも内なる可能性を信じることもなく、親に与えられた役どころを演じるようになります。
これからの人生どう生きていきたいか深く考えてみる
五十歳を過ぎて仕事も家庭も安定してくると、自分の人生を見直したり、生き方に疑問を持ったりすることはよくあります。
長年直人さんは親の引いたレールの上を走り続け、特に問題は感じていませんでした。しかし五十歳を過ぎたいま、これからの人生をどう生きていきたいか、熟考してもらうことにしました。
カウンセリングでの会話の抜粋は次のようなものでした。
私 医師としての人生は続けたいですか。それとも転職の可能性は?
直人 親から言われたとはいえ、医師という職業は自分に合っていると思います。これからも医師を辞めたいとは思いません。
私 親の言いなりだった人生を否定する気持ちはどのくらいありますか。
直人 結果的に医師という職業に就けたことに関しては親を感謝します。でももう少し抵抗して、自分自身の価値観や固定観念を身につけたかったと思います。親をはじめ周りを気にしすぎて全く自分を主張しなかったことは、情けないと思います。
私 これから残りの人生はどのように生きたいですか。何かやりたいことはありますか。
直人 何か趣味でもなんでも良いんですが、気持ちを込められることをやりたいです。絵を描くことが子供のころ大好きだったので、絵を習ってみるのもよいかもしれない。
私 居場所を見つける方法があるとしたらそれは何だと思いますか。
直人 例えば絵を習うとしたら、多分気持ちを込めることができるのではないかと思います。そしたら自分の心の中に居場所のようなものができてくるのかもしれない。
私 医師以外の人を見下さないためにできることはなんでしょうか。
直人 医師以外の人とまず交流することがいいのかもしれません。他の分野の面白い人と話をしたり。特に趣味などを共有する人と出会うことは良いのではないかと思います。何しろこれまで仕事以外無趣味で、医師以外の友人候補と出会うことさえあまりありませんでしたから。
このような私との問答を通して、生活に少しずつ変化が出始めました。直人さんは、五十歳にして自己実現に向かって歩みだしたようです。
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